ここで参考までに福知山線を通っていた列車の変遷を長距離優等列車を中心として簡単にまとめてみることにする。[9]に福知山・山陰線の優等列車の変遷が記事としてまとめられているので、これを基礎として復刻版の時刻表などに当たって詳細を確認の後、表の形とした。
昭和の福知山線列車(民営化まで)
大阪から出雲今市*・大社へと直通する昼行列車である。筆者の確認した最も古い時間表は大正14年4月のものであるが、701・702列車(出雲今市行)として存在している。昭和10年に急行化され、C54牽引の大社急行として戦前の山陰線における代表的な列車となった。客車は31系などで、食堂車も連結されていたようである。なお、元々普通列車とはいっても、例えばS.9.12時間表によると大阪〜福知山間では神崎*・塚口・池田*・宝塚・三田・篠山*・谷川・柏原・石生だけに停車する速達列車であった。同時間表では、出雲今市行の407・408列車であり、これ以外にもすべての駅に停車する大社行普通401・402列車が並存している。前者の407・408列車が急行となった姿は、S.15.10時間表において401・402列車として確認できる。
戦争の激化したS.18には急行運転が取りやめとなり、401・402普通列車(出雲今市行)に戻った。戦後、S.22に準急409・410列車(大社行)として復活、C57+35系客車で運転されたとされている(S.25.10時刻表では2・3等の705・706列車)。
その後客車も42系主体となり、S.26には再び急行に格上げされ、「いずも」という名称を授かることになる(東京〜大阪間「瀬戸」に併結)。C57がヘッドマーク付きで先頭に立った写真も[21]などで見ることができる。S.32頃からはC57に代わってDF50が牽引するようになった。さらにS.36.10の大改正で京都から山陰線に入ることとなり(この時、最優等列車「まつかぜ」が導入されると共に、大社・浜田行急行「三瓶」が列車番号701・702を名乗るようになる)、福知山線からは消えたが、その後も現在に至るまで東京と山陰を結ぶ寝台特急として長く活躍している。
なお、「いずも」の歴史については、[31][21]などに特に詳しい。
全国の非電化主要路線に特急網を張り巡らす計画の一環としてS.36年、新開発のキハ81特急型気動車の改良型であるキハ82編成が新設の山陰特急に投入された。これが「まつかぜ」である。また、S.40には大阪〜浜田を結ぶ「やくも」も誕生し、これが後の鳥取行き「まつかぜ」となった(S.46〜)。
S.36.10改正では「まつかぜ」に加え、大阪から山陰への急行として「三瓶」と「白兎」も新設されている。「三瓶」は前述のように「いずも」の後継のような位置付けで、S.40頃までは客車列車であったが、「白兎」の方は元々山陰線京都発着の同名準急が急行に格上げされた際に大阪発編成が併設されたため生まれたもので、気動車列車であった。
この2列車は、S.43.10改正において「だいせん」に統合される。「だいせん」の名称は、それ以前に伯備線経由で京都と大社を結んでいた急行列車から譲り受けたものである。同時に伯備線の「だいせん」は後述する福知山線夜行急行の「おき」の名称を受け継いでおり、伯備線と福知山線とで目的地を同じくする列車の名称が交換された形となっている。
別項でも述べたとおり、大阪と舞鶴を結ぶ計画は、阪鶴鉄道の見果てぬ夢であったが、その夢は国営鉄道にどの程度引き継がれたのであろうか。昭和9年の時間表などで、福知山線と舞鶴線とが同じ表にまとめられているのは阪鶴鉄道の忘れ形見であろうか。同頁の路線案内図も、尼崎〜福知山〜新舞鶴*を軸に描かれている(これは両路線を繋げて描くと自然にそうなるので、意図的なものではないかもしれない)。
福知山から北近畿の各方面への路線は少しややこしいのでここで簡単にまとめておくと、福知山からは(1)そのまま山陰線を豊岡・城崎へ向かう経路、(2)一旦山陰線を京都方へ逆行して綾部から舞鶴線へ入り西舞鶴*に到達した後、東舞鶴*経由で敦賀に至る小浜線、(3)同じく西舞鶴から豊岡へ向かって山陰線城崎方に戻る形となる宮津線とに分かれていた。ここでいう舞鶴方面の列車とは、(2)・(3)経由の列車を指すものである。
さて、大正14年や戦前の時間表には、新舞鶴行きの普通列車が1〜2往復存在している。また、今の感覚では珍しい感じがするが、大阪〜福知山〜舞鶴〜敦賀という直通列車もあった。その他、S.9.12には、宮津線回りの城崎行きという列車も掲載されているが、総じて戦前の直通列車はこのような具合である。
戦後はS.25.10に敦賀行が存在しているものの、S.30年代に入ると舞鶴方面に直通する列車は一時減少しているように伺える。しかし、S.36以降、準急「丹波」が登場すると共に、再び城崎や天橋立とを結ぶ宮津線経由列車が増え、また夏季の海水浴客などの便宜を図った季節列車も設定されるようになる。その一方で普通列車で直接舞鶴線に入る列車は消えたようである。なお、S.50〜S.53に存在した急行「いでゆ」は丹波2号に併結され、福知山より舞鶴線・宮津線経由で豊岡とを結ぶものであった(「丹波2号」は京都からの「白兎」を福知山で併結・鳥取行)。これら急行「丹波」の運行経路は現在の特急「北近畿」にも引き継がれているので、期せずして阪鶴鉄道の理想は現在にまで受け継がれていると言えるのかも知れない。目的は富国強兵から観光へと大きく変わったようであるが、時代の流れというべきであろうか。
大社急行は昼行列車であったが、夜行列車も古くから存在していた。大正14年時間表によると、この頃の列車番号は709・710、区間は神戸〜大阪〜大社で二等並型寝台を備えていた。S.9.12では405・406列車、S.15.10では409・410列車、どちらも大阪発着になっている。なお、後者の池田発時刻は22:01であり、別項「小座談会」において語られているのはこの列車であると推測される(但し、池田止が最終となる時期もあった)。この夜行は、時間表上では戦争中のS.19にも残っている。
戦後も長く普通列車として存続していたが、S.36年に急行に格上げされ急行「しまね」となった。さらにわずか1年後には「おき」と改称するがこれも長続きせず、S.43.10大改正時に昼行の急行列車と共に「だいせん」を名乗るようになる。昼行の「だいせん」は電化後に消えたが、こちらは別項で述べたとおり現在も姿を変えて残っている。
余談になるが、ディーゼル機DD54が「棒高跳び」とも呼ばれる脱線転覆事故を起こしたのが、この急行「おき」牽引時のことであった。昭和43年6月28日、山陰線湖山駅構内で機関車脱線転覆、先頭方客車6輌が脱線する大事故である。この時の編成が記録に残っており、当時の夜行急行列車の姿を窺い知ることができる[41]
大社 <- DD542-(1)スユニ6028-(2)マニ6036-(3)オロネ105-(4)スロ622062-(5)オハネ1222-(6)スハネ3031-(7)オハフ452109-(8)ナハ1078-(9)オハ46685-(10)オハ46381-(11)オハ469-(12)オハフ452108 ->大阪
尼崎港*〜川西池田*を結ぶいわゆる尼崎港線列車は、末期には福知山線の線路を借りた別系統列車のような存在であったが、昭和30年頃まで遡ってみると、後の三田・篠山口*行きのような東海道口の主要な区間列車に相当していたことがわかる。大正14.4では、12本の区間列車のうち10本が池田行きである(大阪発1、尼ヶ崎発9、他は大阪〜三田・尼ヶ崎〜生瀬、なお、ここでいう尼ヶ崎は神崎ではないので注意)。また、S.9.12では、同16本中11本である(大阪発2尼ヶ崎発9、他は尼ヶ崎〜塚口1・大阪〜三田4、上りは池田発大阪行が1本増)。戦争直後は一概に比較できないが、S.22には尼ヶ崎〜池田2往復、尼ヶ崎〜塚口1往復、大阪〜篠山口1往復である。これがS.31になると、尼崎港〜川西池田は4往復、S.36では同3往復に対し、大阪〜篠山口4、大阪〜三田1となり区間列車の主体は大阪〜篠山口区間に移りはじめるようである。
ところで、末期の尼崎港線列車は川西池田行から塚口行に短縮されてから廃止されたのであるが、S.35頃より前(正確な時期は未調査)から戦前、さらに大正末期に至るまで、池田行と並んで1〜2本の塚口行列車も存在していたことがわかる。
なお、大正14.4の時間表によるとこれら尼ヶ崎〜池田列車のいくつかは「汽動車」であるとされているのが目に止まる。時期的にガソリンやディーゼルの気動車ではなさそうなので、ホジ6005のような蒸気動力付客車だったのかも知れない。
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(*注)駅名は文脈に応じた時期の表記を使用した(以下を参照)