■ 川西池田駅を通り過ぎた国鉄車両     [目次ウィンドウ]  [目次]

ディーゼル機関車

DF50  国鉄の無煙化策と共に登場した電気式ディーゼル機関車。1956年から製造され、筆者が現役の姿に接することの出来た最も古い機関車である。 1970年代後半には廃車になったり宮崎や高松に移って姿を消した。

DD54  1966年誕生。独特の重厚な姿が魅力的だったが、故障続きで欠陥機関車とまで陰口をたたかれつつ、わずか10年ほどで去ってしまった、通称「悲運の機関車」。ディーゼル化時代の福知山線を語る時に欠かせない存在といえる。33号機が弁天町の交通科学博物館の隅にDF50 18と共に静態保存されている。

DD54

大阪行12:29発722列車の先頭に立つDD54 (1974/S.49夏頃 自宅より撮影)
側面ルーバーの形状から第1次生産型とわかるが車番は判読不能。
鳥取行特急まつかぜ2号との交換を行なっているところ。

DD51  製造開始は1962年でDD54よりも先だが、この項の中では唯一現在も各地で現役活躍しており、また福知山線でも最近(1999.10)まで寝台急行「だいせん」を牽引する姿を見せ、結果的に福知山線では顔的存在であったのがこの凸型機関車DD51である。子供の頃は形態からDD13の親分と思っていたが、実はDD13の方が先輩だというのは、今となっては笑い話である。

DD51

新駅に停車中のDD51牽引普通列車 (1981(S.56) 駅西端、国道側より)
新線切替後もしばらくは以前と変わらない客車普通列車が残っていた。
荷物車(1両目)も最末期の勤めを果たしている。(1986(S.61)に廃止)
なお、電化後も電気機関車の定期運行はなかったものの、臨時にEF65などは見られる。
上の写真と同年の2/2にはEF58 98が集電試験で電機として初入線した[35]
(なお、この写真は一部加工・修正したもの)

DD13  入替用機関車の性格が強いが、貨物列車の他に尼港線客車列車でも使用されていた。1958年より生産。記憶にあるのは後期型のみだが、前照燈一つの初期型も使用されていたようである。1987年までに全廃となったが、本機も交通科学博物館に展示されている。
なお、DD13はDE10などの後継機に置き換えられた線区が多いが、福知山線ではどうだっただろうか。調べた範囲では唯一、試験運転時の105号機[高松]を捕らえた写真が「近畿地方のSL」[59]にあるだけである。

DD13(模型)

後期(第3期,15次)非重連型DD13 (1/80 ホビーモデル製キット筆者組立 2000.11)

これ以外に北部の積雪地では除雪用のディーゼル機関車が活躍していた。川西辺りではほとんど積雪がなく、そのためかどうかわからないが実際に見た記憶はない。

ディーゼル動車

キハ82(80系)   新大阪〜博多を結ぶディーゼル特急「まつかぜ」の初期に使用(当初は京都〜松江間)。「まつかぜ」は、その後区間も短縮され、後継のキハ181系に置き換えられた後、485系電車特急「北近畿」にバトンを渡すようにして消滅した(但し、運行系統・性格から「北近畿」は急行「丹波」の格上げと言うべきかもしれない)。

キハ58系  急行「丹波」に使用されていた。

キハ17系   いわゆる「バス窓(長丸状の上部窓と下部の通常の窓に分かれている)」の初期ディーゼル動車で、無煙化の進行していた頃に区間普通列車に使用。

キハ26  快速に使用されていた。

キハ26

一本松踏切付近を通る キハ26 快速列車 (1974/S.49)
快速は大阪・篠山口間1日2往復のみで、途中停車駅は
尼崎、伊丹、宝塚、三田、相野、古市であった。

キハ26-2

キハ26 (1976/S.51)

キハ40系   非電化時代末期から部分電化の頃まで、普通列車を中心に使用されていた、朱一色のディーゼルカー。

キハ40系

下り線に停車中のキハ40系普通列車 (1979/S.54)

客車

旧型客車  ダブルルーフ時代の客車については未調査である。昭和40, 50年代に限ってみると、オハ61、オハ35、スハ43, オハ46, オハ47 、など(およびその緩急車仕様車)が、時には軽量客車ナハ10、ナハ11も交えて、6〜10両位で編成されているというのが典型的な福知山線普通列車の姿であった。

これらに乗って大阪まで行くこともたまにあったが(大抵は、特に小学校を卒業した頃からはほとんど阪急を選んでいた)、単線の普通列車の通例どおり、優等列車待ち合わせ等で途中駅にはうんざりするほど(といっても長くて10分程度であるが)停車したものであった。尼崎を出ると右に東海道線の電車が現れて競争(?)することもあったが、福知山線は塚本には停車しなかったので、相手が普通ならここでわずかながら先を越すことができる。やがて左側のビルの屋上に巨大な地球儀のような変な球体の宣伝塔が見える頃(何の広告だったか憶えていない)、スピーカーからお約束の鉄道唱歌のオルゴールが流れ(オルゴールにはこれともう一種類あって両方覚えているのだが、時代が違ったか使い分けていたか、あるいは適当だったのか不明)、大阪到着を告げるのであった。

よく考えてみると、鉄道唱歌の方は福知山線普通列車で耳にしたのではなく、「雷鳥」や「銀河」などで聴いたものだったかも知れない。

キハ58

キハ58系急行を待避する下り普通列車 (1975/S.50)
2両写っている旧型客車のうち、左は茶色で原形に近いスハ43か何かと思われるが、右は近代化改造を施されており窓がアルミ枠化され、便所の窓が小さい長丸状に変更されている。

模型を使用して福知山線列車を再現しようとした時、客車の特徴と車番(形式番号+車番)を現実にあったものと一致させようとすると(別にそうしなくてもいいのだが)非常に苦労する。福知山線の客車の配置といえば、福知山区、米子区、(一部大阪の宮原区)であるが、それらの客車区に所属していたからといって福知山線で使用されたとは限らない。[58]の巻末や「鉄道ピクトリアル」の記事には、いくつか車番まで含めた実際の福知山線列車の編成を記録したものが発表されているので参考になる。筆者も子供の時ただ駅で列車を見るだけでなく番号でも控えていればよかったと今頃後悔するが、自分も含め周りにそのような趣味の人間がいなかったのだから仕方がない。台車が好きで駅で型番を覚えてきては家で図鑑を見ながら下手な台車の構造図をノートに描いていたような記憶はあるのだが、それすら散逸してしまっている。さて、番号がわかると今度は番号から配置を調べる作業を行う。配置は時々変わるものなので、時期を特定して調べることになる。また、塗色が茶だったか青だったかも時期によって同一車両でも違ったりするのでこれも特定する。さらには窓がアルミ枠化されているか、電気暖房が付けられているか(これは車番から分かる)、屋根が鋼製かキャンバス張りか、手洗所窓の形状、デッキ扉や貫通扉の形状、など細かいようで非常に目立つ違いがあって−−目立たない所まで入れるともっとあるのだが−−こだわるときりがない。そこで、写真から福知山線を通っていたことのある車両(大阪駅での写真があればまず確実)を探し出し、写真を参考にそれらしく細部を作り、実際にあった編成の中の同一形式車両のところに当てはめたりするわけである。これは筆者の趣味であって、たいして役に立つわけでもなく、模型を楽しむ方法としてこのような取り組み方が本質的かどうかは常に議論のある所であるし、もっとこだわらない流儀はいくらでもあるのだが。古臭くてオンボロと言われ嫌われた旧型客車であるが、捨て難いあたたかみがあった。しかし、増大する輸送密度と快適性への要求にまったくそぐわないものであることも事実である。現実とノスタルジーはまた別物である。

新型客車 軽量客車ナハ10, ナハ11は古くから使用されていた。これらはDD54の次位に連結されていると非常によく似合っていた。また、S70年代頃からと思われるが、12系がDD51に引かれてたまに通って行った。12系とは、明るい青色(青20号)に白帯2本の入ったいかにも乗り心地が良さそうな客車で、旧型客車のように他系車と入り乱れて編成されることはないので、普通列車らしからぬすっきりした印象であった。当初は臨時列車に使用されていたのではないかと推測されるが、S.60(1985)年3月改正から宝塚〜城崎が電化されたS.61(1986)11月1日改正による定期普通客車列車消滅まで、電車以外の普通列車の多くがこの12系編成となっていたようである[26]

(*)別の記事によると旧型客車置き換えの12系化は昭和61年3月改正からとされている[36]

70年代の夏のある日、川西池田の待避線に臨時列車の12系客車が止まっていたことがあり、発電用の車載ディーゼルエンジンの音に驚いて見に行った記憶がある。

この頃の大阪からの山陰海水浴臨時急行には「はしだてビーチ」「但馬ビーチ」「丹波ビーチ」などがあったが、福知山線経由のものは、
・9702レ「但馬ビーチ1号(香住13:54→大阪18:42)」
・9703レ「但馬ビーチ2号(大阪8:03→香住13:24)」
の1往復であった(1976年)。鉄道ダイヤ情報1976夏号[39]の「夏の臨客一覧表」によると、これら「〜ビーチ」列車はいずれも12系を使用していた。
ただこれらは急行であるので川西池田の停車はない。この停車していたという記憶は「但馬ビーチ」の表示幕とともにかなり鮮明なのだが、故障停車か何かだったのかも知れない。

荷物車・郵便車  長大客車編成の福知山寄りにはたいてい、マニ60やスユニ61、さらに昔は客荷合造車が数輌連結されていた。大阪でも川西池田でも(他は知らないが)ホームの福知山方に荷物積み下ろしの作業を行う設備があったのでこれが定位置であった。

大阪駅西端

大阪駅2番線塚本方にて (1974/S.49)
大阪駅のこの場所で荷物扱いを行っていた。手押し台車が行き交い、写真にあるようなエレベータで階下に運ばれていった。写真のワキ8000とマニ60(61?)、さらに向こうに少し覗いているオユ10は東海道線列車のもの。

寝台車  急行「だいせん」は歴史のある寝台急行列車であったが、10系、20系、14系と変遷し、1999年にディーゼル動車化(キハ65の2両編成で非寝台列車)された。坂本衛氏の「車掌裏乗務手帳」[56]には20系時代の「だいせん」の話が出てくる。
「だいせん」の編成は、探せば各所で見つかると思うが、1999(H.11).10 (客車列車廃止時)の編成は次のようであった。

[出雲市] DD51+スハネフ15+オハネ15+オハネ15+オハ12+スハフ12 [大阪]
(注:時刻表によると普通車3両の増結もあったようである)

ここで参考までに、福知山線の代表的な列車の編成を、編成順序表[52]から抜粋したものを記す。編成指示書であるので、実車が必ずしもこの通りであったとは限らないが、当時の姿が良くわかる。

特急まつかぜ(7D/8D)
[京都] キハ82+キハ80+キハ80-[左米子迄]-キハ82+キハ80+キハ80+キシ80+キロ80+キハ82 [博多]   向日町区受持

急行白兎(801D/802D)
[大阪] キハ58+キハ28+キロ28+キハ58 [松江] 宮原区受持

急行丹波1号(705D)
[大阪] キハ26+キハ26+キロ25+キロ25+キハ26+キハ26+キハ26 [城崎] 福知山区受持

特急出雲 (21/22レ)
[東京] ナハネフ10+ナハネ11-[左鳥取迄]-ナハネフ10+ナハネ11+スシ48-[左米子迄]-スロフ53+オロネ 10+
           ナハネ11+ナハネ11+オハ+オハ+スハフ [浜田] 品川区受持 DF50牽引

普通列車(711レ)
[大阪] オハフ+オハフ+オハ+オハ+オハフ+オハ+スハニ+スユニ [浜田] 米子区受持 DF50牽引

普通列車(725レ)
[大阪] スハフ+オハ+オハ+オハ+スハ+スハフ [篠山口] 宮原区受持  C11牽引

旧型客車の普通列車に形式番号まで記載されていないのは、牽引定数と緩急車の位置さえ合っていれば車種は何でも良かったのであろう。ただ、そう毎日編成を組み替えていたとも思えないので、ある程度は固定編成として使用されていたような気もする。

普通列車(422D)
[福知山] キハ17+キハ17+キハ17+キハ17+キハ10-[右篠山口より]-キハ17+キハ17 [大阪] 福知山区受持

尼崎港線普通列車(811-816レ)
[尼崎港] スハフ+スハフ [川西池田]   C11牽引

〜「まつかぜ」の運用について〜

25年に亘る歴史を持つディーゼル特急「まつかぜ」の運行形態の変遷については、全国の他の同系特急列車と共に「ザ・ラストランナーズVol.5 80系気動車特急物語」[68]の巻末に詳しい。時刻表など膨大な資料を丹念に調査してまとめあげられたという労作であり、ここで単純に引用するのは差し控えたいが、筆者の記憶する昭和50年頃---博多行・鳥取行の上下4本で運転---以前・以後にかなり複雑な変遷を辿っていたことがわかる。

鳥取行「まつかぜ」は単純に後から付け足した随伴編成ではなく、実は東海道新幹線開通に伴い新設された、新大阪・浜田間の姉妹特急「やくも」(昭和40〜47年)を改称した列車であり、播但線「はまかぜ」との共通運用であったとされている。昭和57年には、博多行よりも一足先にキハ181系化(米子区)された。一時期筆者は何故か「まつかぜ」=80系、「はまかぜ」=181系と思い込んでいたが、これは博多行と鳥取行の「まつかぜ」を対比させているのと同じことであった。
例えば昭和58年の編成記録[53]から再現してみると、早朝6:21に鳥取を出た"22D"はまかぜ2号は、播但線経由で10:49に大阪に到着、12:10発の"7D"まつかぜ3号となって米子に向かう。同様に11:13米子を発車した"8D"まつかぜ2号は、17:09大阪に到着、そのまま18:00大阪発"23D"はまかぜ3号となり鳥取に向かい、米子に戻ってくることが読み取れる。
因みに博多行「まつかぜ」も昭和60年には181系化され、米子以西が「いそかぜ」に分離されたのはよく知られている通りである。

まつかぜ連結

鳥取駅で本編成の増結を待つ 大阪行「まつかぜ2号」 (1975/S.50.8)
停車時間は6分間。



蒸気機関車

筆者が物心付く頃(S.45年頃)までには、SLはほとんど福知山線からは消えていたようだが、その頃でも臨時にC57やD51が走ることがあったという記録も見受けられる。しかし、煙を見た覚えは皆無である。

福知山線で活躍したSLとしては、8800,C50,C51,C54,C55,C57,D51,C11の姿が文献で確認できる(下表)。福知山区のC58も通ったかもしれないが、運用を示す写真や記録は未見。

形式 番号 年代 撮影場所 文献番号 備考
8800 8806 S3 大阪駅 [71]  
C50 14 S9 大阪駅 [72]  
C54 5 [福] S31 伊丹駅 [12]  
  6 [福] S31 宝塚(阪急立体交差) [61]  
  10 [福] S31 道場 [27]  
  15 [福] S35 北伊丹駅 [33]  
  17 [福] S34 生瀬駅 [9]  
C55 9[福] S35 大阪駅 [119] 「北総レール倶楽部」のページへ
  21 S30 生瀬 [27]  
  56 S33 三田〜道場 [12]  
C57 11 [福] S38.1.1 大阪駅 [9] 門デフで有名なC57
  11 [福] S41 大阪駅 [34]  
  41 S40.5.23 塚本 [9]  
  41 S45.6.13 生瀬〜武田尾 [9]  
  58 S40.8.21 宮原機関区 [9]  
  85 S31   [63]  
  85 S41.5 宝塚 [9]  
  87 [福] S40.5.22 宮原 [9]  
  93 [福] S40.7.4 大阪〜宮原 [9]  
  128 S30 生瀬〜武田尾 [27]  
  128 S33.9.14 生瀬 [21]  
  128 [福] S44 塚口駅 [58]  
  152 S33.6.13 中山寺〜川西池田 [21]  
  152 [福] S36.10.8 大阪駅 [9]  
  152 S40.8.21 宮原機関区 [9]  
  152 [福] S41.8.31 尼崎〜大阪 [9]  
  152 [福] S44 宝塚〜生瀬 [59]  
D51 133 S31 生瀬付近 [62]  
  143 [吹一] S44 生瀬駅 [59]  
  319 S44 宝塚〜生瀬 [59]  
  393 [福] S31 道場〜三田 [27]  
  577 S33 生瀬〜武田尾 [12]  
  754 [吹一] S40.4.29 川西池田機関支区 [9]  
  754 [吹一] S44 生瀬駅 [59]  
  839 S33 三田〜道場 [12]  
C11 159 [吹一] S42 生瀬駅 [58]  
  253 [宮] S31 道場〜三田 [27]  
  271 [吹一] S40.4.11 大阪駅 [9]  
  271 [吹一] S41.9.5 武田尾駅 [9]  
  280 S39.11.23 生瀬〜武田尾 [9]  
  316 [吹一] S33 道場〜三田 [12]  
  316 [吹一] S39.11.3 塚本 [9]  
  316 [吹一] S40.1 川西池田駅 [119] 「北総レール倶楽部」のページへ
           
           
           
           

福知山線での走行写真が発表されている国鉄蒸気機関車(筆者が調べた範囲のものであり、網羅的なリストでないことは了解願いたい。)

タイトルの趣旨(国鉄車両)からは外れるが、時代を溯って阪鶴鉄道時代の小さな輸入タンク機関車について、意外にも鮮明な写真と共に記録が残っている(塗色が不明だが)。これら初期の輸入蒸機は、やがて鉄道院の制式機関車となり、元鉄道作業局機関車の8100など他の地区からの転属なども交えつつ、中型テンダ機8800(ドイツ製)へ移って行く(8800は福知山線専用として12両が配置されていた[30])。ただ、古典機が阪鶴独自発注の新製機であったのに対して、8800の方は幹線のお下がりで、この頃から多くの車輌の余生を見送るという傾向が始まったのだろうか。とはいえ、播但線・山陰線の方がその傾向は濃く、鉄道愛好家はそちらに流れたようである。電化後はこの傾向が逆転し、カナリア色の103系電車はピカピカの新製で決して総武線のお下がりではなく、東西線乗り入れの207系も最新鋭であって、かつての使い回し・寄せ集め路線などという見方を昔話へと追いやってしまうほどの意気込みが感じられる。

余談だが、川西池田駅の待合室にはどなたの作品か勇壮なSLの大判写真が飾ってあり、福知山線でかつてSLが活躍していたことを無言で物語っていた。

軸配置 製造所 輌数 阪鶴鉄道形式番号
(?は未確認)
製造年 鉄道院形式 備考
C 米Pittsburgh 3 1,2,3 1897 1255,
1350
 
C 独Krauss 4? 4,5?,6?,7? 1895〜1897 1400 九州鉄道に同形機
2B 米Brooks 3 8?,9,10 1898 5860 テンダー機
1C1 米Brooks 2 11?,12? 1898 3450  
1C 米Pittsburgh 1 13 1897 2850 現存、尾西鉄道に同形機
C 独Hannover 2 ? 1900 2040 開業時の13輌とは別で、また勾配用であることから、1899(明32)の全線(福知山まで)開通に伴って強化のため増備されたものであろう。

「明治の機関車コレクション」[69]で確認できる初期の蒸気機関車一覧

貨車

かつて福知山線を賑やかに往来していた貨物列車であるが、残念ながらほとんど資料が見当たらない。

川西の物産で貨車で運ぶものといってもすぐには思い付かないのだが、能勢電の沿線には結構いろいろな産業があり、帝国鉱泉の三ツ矢サイダーに始まり、鉱石、炭(?)、穀物などの産出があったようである。また、池田からの集荷もあったかもしれない。いずれにせよ川西池田と関係があった(ヤードに入っていた)と筆者の記憶している貨車は、ほとんど黒色や鳶色のワム(有蓋車)に限られる。

一方、通過して行く貨車は、北伊丹〜尼崎が工業地帯であったことと、生瀬で砕石が生産されたことなど(他にも理由はあるかもしれないが)から種々雑多で、有蓋車・コンテナ車・タンク車・無蓋車・ホッパー車から、冷蔵車や車運車(ダイハツ工場が北伊丹所在)まで観察できた(*1)。記憶している尼崎までの車窓の風景は、大小工場の連続といってもよいくらいで、その中でも子供の頃だけに森永製菓、江崎グリコなどの工場が印象に残っているが、これらは現在も変わらず操業している。塚口駅近くには重量物運搬車シキ400(三菱電機の私有貨車)が長らく留置されていたこともあった。尼崎の麒麟ビール工場は最近移転してしまった。電化後も経験していることだが、この区間ではよく工場からの異臭が車内を襲うことがあった。今では電車も密閉されていて、そうであったとしてもあまり関係ないかもしれない。鉄道模型工作の方面で有名な金属錆取液の商品「ブラスクリーン」を筆者もよく使用するのだが、これの臭いは当時の塚口や淀川鉄橋の光景を想起させる。(パーマ液に近いにおいである。)

(*1) その後得た証言によると、川西池田のヤードに赤いク5000(標準的なボギー車運車)が入って自動車の輸送を行っていたようである(航空写真でも確認)。関連情報として、@niftyにアクセスできる方は、鉄道フォーラム専門館(FTRAINE)[118]のMES9#9957も参照されたい。先に有蓋車くらいしか見た覚えがないと書いたが、車運車の基地であったと言われればそいう気もするという程度でしかなく、つくづく記憶はあてにならないと思う次第である。

専用貨車による自動車輸送がさかんに研究されるようになった昭和30年代の終わり頃、ダイハツにおいても車運専用貨車シム2000(後のクム2000)が完成した。昭和38年10月、私有貨車として30両が製作されたとされているが、鉄道公報No.4237の総裁達第547号(昭和38年10月29日)においては、シム2000〜20009の10両が私有貨車リストに加えられている。以下、ダイハツ社史[100]よりこの貨車について述べられた部分を紹介する。

38年10月,貨車積載効率を向上し,輸送コストの大幅な低減をはかる目的で私有貨車30両を製作した。この私有専用貨車の利用で,軽四輪車なら6台,小型四輪車コンパーノなら4台の積載が,また,混載なら軽四輪車3台,小型四輪車コンパーノ2台の計5台の積載が可能となった。国鉄福知山線川西池田駅をこの貨車の常備駅とし、主として道路事情の悪い裏日本地域への輸送に使用した。41年9月に国鉄北伊丹駅に専用線,積込み場の完成するまで,鉄道輸送は主として同駅を利用した。なお、私有貨車は現在84台を数えている。(p.167)

シム2000

シム2000 1/80模型 (2000.12.26)
ホビーショップモア製品

下ること30年、貨物輸送も全廃され、急行「だいぜん」も気動車化された現在、福知山線は機関車とは縁のない電車・気動車線区となってしまった(*2)。

(*2)福知山線を利用されている方から頂いた御指摘によると、現在でも宝塚〜尼崎間で砕石運搬を行うDL牽引の工事臨時列車が存在しているということで、調査したところ以下の例のような定期(?)機関車運用が残っていることが判明した[40](頻度は不明)。[59][64]などで紹介されている生瀬・惣川の砕石列車が今に至るまで残っているものであるらしい[66]
[入A26]
工7771 吹田信(7)8:31 → 宝塚9:10
工7770 宝塚10:37 → 尼崎11:00
単7770 尼崎12:14 → 吹田信(6)12:31
[入A27]
工7773 吹田信(7)13:32 → 宝塚14:09
工7772 宝塚15:23 → 吹田信(6)16:14
すべてDE10[吹]牽引。
このように、また臨時・季節列車の存在も考え合わせると「縁のない」線となったとまで言うのは誤りで、慎んで訂正させていただきます。

惣川(武庫川対岸より)

(参考)惣川の砕石ホッパー (2000.8.18)
宝塚と生瀬の間、武庫川を隔てて惣川の貨物側線辺りを望む。中央右に見えるヤグラ状の砕石ホッパー直下にはホキ500が10輌留置されていた。

福知山線の歴史を部外者の立場で見てみると、無煙化・輸送力強化・動力分散という風にその時々で若干の遅れを取りつつも結果的には大勢に乗り遅れないように近代化を果たし、ついには阪急をも脅かす第一線の「東西線・宝塚線」として花を咲かせた感がある。三田までの区間は特にそうだったらしいが、複線電化工事は遅れに遅れたようで、もし複線電化が民営化前に行われていなかったら、果たして福知山線全体が区間廃線などになることなく昔ながらの路線で存在していたかどうか…大変幸福なことだったと言わざるを得ない。

川西池田駅の移転と国鉄分割・民営化の時期が近かったため、どうしても両者を関連させて見てしまいがちであるが、実際には駅移転の理由である複線電化についてはずっと以前(S.30年代)から計画されていたことであるし、移転時にもまだ国鉄改革の最終形態は見えていなかったわけで、そのような見方は誤りであろう。国鉄改革といえば、1970(S.45)年頃だったと思うが踏切近くに「遵法闘争」のスローガンが掲げられていたりして、この安閑とした駅も労働闘争とまったく無関係ではなかったのかもしれないし(他から張りに来たのか?)、それでもやはりのんびりとした平和な職場だったのかもしれない(当時は子供だったのでその意味はほとんどわからなかったが)。筆者のようにただ子供の遊び場のようにして駅と接していた部外者には、窺い知れない領域である。駅員の人たちには良く相手をしてもらったが、JRに残っておられたとしてもとっくに退職されているであろうか。

鉄道ファンから見た福知山線は、武田尾の渓谷美にゆったりと行く列車を愛する人も多く、最後まで大阪へ旧型客車列車を乗り入れた線として1980年代にはファンを集め、また都市圏に残るローカル列車として尼崎港線が紹介されたこともあった。DD54やキハ80系など「ディーゼル技術の実験場」としてもある程度の興味は引いたかもしれない(数々の試作ディーゼル機関車や「はつかり」ほどではないだろうが)。しかしながら、鉄道ファン一般の習性として、希少性・特殊性という明快な特徴のある対象に群がるという傾向があることは否定できないと思う。その意味で福知山線は平均的すぎたのだろうか、先に挙げたような特定のシーンを別として、雑誌で集中的に取り上げられる機会は今に至るまでほとんどなかった。蒸気機関車は早々と姿を消し、旧客列車なら山陰本線、ローカル線なら東北・北海道、と旅情を求める人にもいま一つ受けなかったように見える。都市部を走る通勤線であり観光線ではないのだから当然のことではあるのだが。そういった意味で福知山線の研究というものがごく偏ったものしか存在しないのは残念なことである。

福知山線の過去に関する趣味方面の扱いについて無い物ねだり的な不満を述べていると、かつてある雑誌の記事の中で、C54が「悲運の蒸機」といわれていることに対して、「C54はまだ良い方で、E10など末期に製造されたために大した活躍もすることなく追われるように消えてしまった」という意味の、印象に偏ったレッテルを見直させる記述があったことを思い出す(「悲運」「不幸」と形容するには、当時を知らない者には窺い知れない現場の心情が作用していることもあるので一概には言えないのだが)。現在の福知山線が運営者・利用者・ファンのいずれからもポジティブに支えられて発展していることが非常に心強い限りである。

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