紺地さんという方からメールにていろいろ情報をお寄せいただきました。極めて詳細な内容で、他のご来訪者の方々にとっても興味を惹かれる点が多いのではないかと考え、許可を頂いた上でまとめて転載させていただきました。ご協力に感謝申し上げます。(2001.10〜2001.12)
はじめまして、今日はじめて、ホームページを見ました。私は、川西市在住の33歳です。 |
はじめまして。「鉄道の町川西」の森田敏生と申します。 |
こんばんは、先日は返信のメールありがとうございました。
長くなってきたので、続きはまた後日、送信します。 |
こんにちは。森田です。 > 2.同じく、旧型客車の項目 > 鉄道唱歌は、485系、24系などの特急車で、旧客は別のオルゴールだと思 > いますし、聞き覚えがありません。 その通りで、ご存知と思いますが旧客のは「ハイケンスのセレナーデ」という曲 (を編曲した)オルゴールでしたね。 > 3.同じく、新型客車の項目 > 〜電化後JR初期の〜とありますが、JRは1987(S.62)年からであ > り、また、宝塚電化は1981(S,56)年、 > 城崎電化が、1986(S,61)年ですから、〜電化後JR初期の〜の表現は > いらないのではないでしょうか。 12系の定期列車での運用時期については曖昧に書いていますが、ご指摘のように 年代の誤りもあり、訂正したいと思います。どうもありがとうございました。 また、12系・50系に関して挙げていただいた資料についても確認しておきます。 (正直なところ、駅移転以降の資料はほとんどノーマークです。) > 〜70年代の夏のある日、川西池田の待避線に臨時列車の12系客車が止まってい > た〜 > とありますが、これは運転停車ではないでしょうか。単線では急行といっても臨時列 > 車で、定期列車がある程度優先されるはずです。
その可能性が高いです。ある期間毎日同じ列車が長時間停車していたという記憶だったら、
そのようにほぼ断定して書けたのですが、残念ながら1回のみの記憶なので、断定までは
できないかな、と思っています。 > 4.同じく、貨車の項目 > これは写真や資料がないのですが、私の記憶に残っているのが、 > ホキ800が川西池田駅常備だったことです。宝塚電化で川西池田駅にヤードがなく > なってから、宝塚駅常備になったと思います。
これは今まで全く気付いていませんでした。確かにヤードによく留っていたようですが、
常備駅とは思っていませんでした。資料が見つかれば調べてみます。 たいへん詳しい分析を頂き、再度感謝申し上げます。 どうぞこれからもよろしくお願いいたします。 |
こんばんは。早速の返信ありがとうございます。
先日返信していただいたホキ800の件ですが、尼崎で見覚えがありません。 書類上の配置ようです。少々前ですが1995(H,7)年、阪神大震災の時に、 宝塚にてホキ1049.1052が被災、脱線してます。(鉄道ファン’96‐7) 今日はこの辺で、つづきはまた後日送信させてもらいます。 |
こんばんは。前回のメール(11/18)読んでいただけたでしょうか?
今回は、前回の補足を書かせてもらいます。 |
こんにちは。森田です。 いろいろと貴重な情報をご教示いただきありがとうございます。 > 5.「晩年の旧川西池田駅と周辺探索」の項 > 〜古いホームにはよくあることであるが、〜の最後に(蓋があったかも知れな > い)と、書かれてますが、 > 手元にある写真(釜割谷踏切より大阪方の撮影)で見るかぎり、蓋をするような切り > 欠きがみあたりません。 > ステップのような物が写っていて、ホーム側面に色が塗られてます。(白黒なので色 > は不明。たぶん黄色だと思う) > また、荷扱い所のあたりには踏切のような通路があります。(ここにもホームに色 > が塗られてます)
板を張った通路ということで言えば、写真でみると跨線橋降り口の手前(事務室前)に
1つと、跨線橋の向こう(荷扱所前)に1つが確認できますね。 > 6.「おわりに」の項 > 〜待合室の方はかなり憶えているのだが〜のところでの不明箇所について。 > ・改札口の左右にベンチ(3人掛け程度の長いす)があります。 > ・事務室の出入口ですが、残念ながら見当たりません。推測ですが、跨線橋入り口 > の手前で事務室が一段引っ込んでますが、ここの側面ではないでしょうか。 > (上記写真では影になっており不明瞭) > タブレット閉塞の場合、閉塞装置がホーム寄りに設置してあり、この位置が取り扱 > い上、出入りしやすいと思うのですが。
事務室の出入り口については、改札口に向かって左のベンチのさらに左に窓一つ
置いて開き戸(後日訂正:引き戸)があったという話があって私もそうではないかと思っているのですが、
写真では不鮮明でよくわかりません。 > ・跨線橋の内側1番線に、下り用の中継信号機があります。(これは塚口〜宝塚間 > 複線電化完成記念入場券、3枚組の内の1枚に旧川西池田駅の写真が使用されてお > り確認できます。) なるほど、電燈3燈のものですね。持っていたのですが気付きませんでした。 > ・1番線宝塚寄りホームの端、スロープ状の部分に通行禁止とペンキ書きされてま > す。(ホームの下から見て左半分に縦書き。) > ・荷物用の台車も数台写ってます。また、2番線(島式ホーム)にも荷物を載せた > 状態で写ってますが、島式ホームの宝塚寄りのスロープ状の部分は砂利のままで > (当然1番線から2番線まで台車を押していける状態でない)この台車は、2番線 > 専用だったのでしょうか? そんな感じですね。線路をまたいでの荷物移しは、手で持ってやっていたんでしょうね。 > 先日返信していただいたホキ800の件ですが、尼崎で見覚えがありません。 > 書類上の配置ようです。少々前ですが1995(H,7)年、阪神大震災の時に、 > 宝塚にてホキ1049.1052が被災、脱線してます。(鉄道ファン’96‐7) ほとんど宝塚の惣川に留置されているようで、尼崎には運転時に一時立ち寄るだけだそうです。 尼崎もかつての貨物全盛時代の面影はほとんど消えてしまったように見えますね。 まだ細いレールの側線が(周辺にも)いくつか残っているようですが、たまに見るだけでは 使用されているかまでは到底分からず、気にはなっています。 > 先日、久しぶりに川西図書館に資料探しにいってきましたところ、旧駅の写真が「広 > 報かわにし」に掲載されてるのをみつけました。 情報ありがとうございます。またチェックしてみます。(広報誌は以前ざっと 目を通したのですが。)川西市のホームページにある写真 (http://www.city.kawanishi.hyogo.jp/event/oldtale/ImgFade/kawaike1.jpg) とは別のものですよね?
ご指摘いただいた幾つかの項目については、また時機を見て反映させていただきたいと
存じます。 |
こんばんは。紺地です。 前回の「広報かわにし」の件ですが、掲載日付を書き忘れたようですみませんでした。昭和55年3月15日付です。写真は川西市のホームページとは違います。 撮影位置は同じみたいですが、「広報かわにし」は1番線が主で改札口も写ってま す。(1番線に上り列車が入線中)ホームページはご存知のように2番線が主で上り 列車が2番線に入線中です。(上り優等列車の通過待ちでしょうか?)
ホームの切り欠きですが、前回書きました写真(晩年の旧川西池田駅と周辺探索
の項で使用されている、「釜割谷踏切よりホームを望む」の写真より右寄り、上り線
と下り線の間より撮影)には1番ホームが宝塚寄りの端から大阪寄りの植え込みの
あたりまで鮮明に写っており(誇線橋の影の部分はやや不鮮明だが通路の部分で
はない)1番ホームに切り欠きは、ないと断定できると思います。1番ホームにない
となると、対面する2番ホームにもないと思うのですが。(残念ながら2番ホームの
側面が写っている写真は上記「広報かわにし」でしか見たことがない。) 次に駅事務室の出入口ですが、返信をいただいてからもう一度よく見直したところ、 改札口左のベンチの真横に窓ガラスが写ってなく(戸が開いてたかも…)おっしゃる とおりここかもしれません。また、私が幼稚園の頃(昭和49年)川西池田駅で写生 会があり、後ろか、横のドアが開き駅員が出てきたような記憶があります。この時、 側線に留置のク5000を書いたはずで、駅舎を背に同車両を書いており、出入口 はこの位置なのかもしれません。
尼崎の貨物側線ですが、南側(駅正面バスターミナル側)は見る影もありません。
北側には今も側線が残ってますが、王子製紙への専用線が廃止になってからは、
使用されてないようです。8番線の隣の側線は貨物列車・団体列車・回送列車が
待避線として使用している。(おそらく現場機関では9番線として副本線扱いされて
いると思う。)廃止前はタキ(形式不明)・ワム38000・ワム28000などが
留置されてました。また、神戸寄り北側には貨物ホームとヤードが今も残ってるが、
貨物ホームは民間の運送会社が使用しているようで、大型トラックがよくとまってま
す。 (アルナ工機に関する記事が鉄道ファン ’02−1bS89 150nにあり。) それでは今日はこの辺で。 |
跨線橋手前の渡り板付近の拡大(左:1番線側・右:2番線側)
元写真は、晩年の川西池田駅周辺探索のページ参照。(Photo:H.Morita©)
こんにちは。森田です。 > お忙しい中、返信ありがとうございます。 こちらこそ、いつも詳しい解説をいただき、ありがとうございます。 広報かわにしの日付をご教示いただき助かります。今度チェックしに行ってきます。 ホームの切り欠き(階段)は記憶違いだったようですね。 踏切からの写真では影でわからないと思っていたのですがよく見ると渡り板の位置と 影とは少しずれていますね。また、レイルロードの「DF50 Vol.3」の写真中の 1番ホームも、電柱に一部隠されているものの、ゼブラ模様のある部分には切り欠きは なさそうです。2番線側も前記踏切からの写真を拡大してみるとホーム端部は どうやらつながっているように見えます。 |
こんばんは。紺地です。
話は少々それますが、鉄道を趣味とする人は多数いると思いますが、
その大部分が車両の研究、切符の収集、写真撮影、などを対象としています。
なかには駅舎に興味がある人もいるかと思いますが、特定の駅、それも大阪や
東京などの大きな駅ならまだしも、普通列車しか止まらない一地方の駅‐「川西
池田」‐に興味をもっている人が、私のほかにいるとはおもいもしてませんでした。 近いうちに追記されるとのことなので、今回は資料の紹介をします。
それでは今回はこの辺で。 |
こんばんは。森田です。 > 旧駅舎が姿を消して早くも20年が過ぎ、人の記憶も薄れるなか、これからの > 調査は困難になる(私が調査した、約10年前でも川西図書室〈当時、図書館は > まだなかった。〉でも資料が乏しかった。)と思いますが、 まったくおっしゃる通りで、その意味でも紺地様のご指摘されたような事柄を 歴史の証言として残していくことに意義を感じております。ご協力いただけて幸いです。 いちばん大きな問題は旧川西池田駅の駅員の方の消息がわからないことで、 数年前に駅で、昔からの方や資料が残っておられないかと尋ねてみたこともあったのですが、 転属が激しくてまったく分からないとの答えをもらったこともあります。(予想は していましたが。)JRに問い合わせるとか、名簿を探すとか、まだ試みていないことは いろいろありますので、時間がとれればやってみようかと思っています。 市役所の再開発課などでも結構聞きまわったものです。
さて、新たにいくつか文献を紹介していただきました。 > ・兵庫県道一覧のホームページ http://takigawa.road.ne.jp/pref/hyogo.html > 県道330号の路線名が『火打川西池田停車場線』となってます。 > 地図(スーパーマップル関西道路地図)で見ますと、火打と霞ヶ丘の町界が基点の > ようですが、残念ながら川西池田まで到達してません。基点より約220b先の日高 > 町交差点で終わってます。火打と川西池田駅を結ぶ目的は何だったのでしょうか。 > 火打と言えば皮工場が思いつきますが、工場地帯は火打1丁目に密集しており、 > 県道12号が面しています。基点となる火打2丁目は住宅地ですので、どうも違う > ようですし…。 > ちなみに旧駅前の寺畑1交差点からの坂道は、県道186号『花屋敷停車場線』 > です。 このページも見たことがあるのですが、それ以上追求はしませんでした。 道路の歴史について詳しくないのですが、他の線との接続ということではないでしょうか。 区間が非常に短いということですが、都市計画道路として停車場までの区間が 吸収されたということもありそうに思えますが…。興味は尽きません。 > ・交通科学博物館所蔵の本ですが本の題名を記録してませんでした。内容は > 保線関係のようで福知山線各駅の配線図と設備が記されてます。配線図は直線的 > に書かれており曲線の具合はわかりませんが、ホームの配置、側線の本数は、 > わかりやすいです。 > 川西池田駅のページには次のようなことが書かれてます。 > ・給水直立管 ・曲301[大阪方] (半径と思います) > ・矩形 ・曲603[宝塚方] ( =@) > ・貯水器 ・11K210M (尼崎基点。現在は11K) > このなかで給水直立管と貯水器が気になるのですが、貯水器とは給水塔のことで > しょうか?また、いつ頃までどの場所にあったのでしょうか? 給水器は、後のヤードの位置を占めていた機関支庫に設けられていた給水設備を 指していると思われます。 大正時代の写真をhttp://www.sowa.com/kawanishi/K_090.htmlの終わりの方に載せていますが、 空中写真で見ると、S.39には写っており、S.42にはなくなっています。 使っていたかどうか分かりませんが、S.40年代前半まで惣川の砕石列車を牽いていたD51がここで ホキの解結のために20分〜50分間滞在していたということなので、使われていた可能性もありそうです。 |
森田様:
今回も情報と資料の紹介をしたいと思います。
そろそろ情報が尽きてきました。また何か思い出したり、発見がありましたらメールさせてもらいます。 追記、改訂後のホームページを期待、楽しみにしてます。 |
紺地様: > ・能勢電川西能勢口−川西国鉄前の廃止日をS.57年と記されてますが、厳密に > 言えばS.56(1981)年12月19日でS.57年目前での廃止です。 > 最終日には「さよなら試乗券」が配布され、たしか無料開放されたと思います。ま > た、「さよなら乗車券」(80円券×3枚組)も発売されました。 この「さよなら乗車券」は先日の1000系廃止イベントの時に遅ればせながら 入手しました。これは模型資料としてもとてもよい写真でしたね。 上の箇所の書き方は「共に」という表現が曖昧で誤解を招きやすかった上に 廃止日を書かない理由もないわけですから、おっしゃる通りだと思います。 (これは最も初期に書いた部分で、その頃は知っている限りの情報を 書いておこうというような意図はぜんぜん持っていなかったのです。 今では逆に、微力ながらできるだけ網羅的になるように心がけています。) > ・「日本通運川西池田営業所と川西池田貨物ヤード」の項〜ヤードの東隣には…〜 > のなかで、川西郵便局の跡に住友銀行が出店とありますが、私の母に聞くところによ > れば、〈S.41年頃小花に住んでおり郵便局へ行くのに国道を渡ることはなかっ > た。〉と言っており、場所は現在の「和食のさと」のあたり(国道には面してない) > だそうです。
この郵便局のことは昭和5年頃の『川西パノラマ地図』という、川西市史3巻291頁にある地図によっていて、ここでいう川西郵便局というのは現在の栄保育所の北にある川西郵便局の前身ということです。また私の記憶ですが、「さと」の近く、川西(後日訂正:川西伊丹線沿い)にも確かに小さい郵便局があったように思います(再開発が始まった頃)。現在どうなっているか知りませんが、住宅地図には書かれていないですね。 > ・「能勢口周辺探索」の項、中央商店街について。 > 現在の中央商店街の写真のコメントにほとんどの店が閉まっている、と記されてま > すが、この頃は既に移転した後だとおもいます。写真左手にシャッターの前に白い > 看板があります。これは移転告知の物で今もあります。また、阪急側は高架工事の為 > 数軒が立ち退きになり(仮線設置の為だったと思う)少し短くなったはずです。 なるほど、阪急側というと角の中央堂(金物)が変わっていなかったので短くなったとは 思いませんでした。線路が倍増しているのに北側の配置が同じということは、そういう ことになりますね。 > 藤の森会館ですが、珠算教室は確実にあり、私も検定試験だけはここで受けました > ので間違いありません。(ほかに英会話か、習字があったような気がする。)また、 > 場所がホームページで標されてる所でなく、藤の森稲荷に隣接してるはずです。 > ジャスコの今の建物を建設中は阪急ショッピングセンターの県道側で仮営業してい > たらしいです。 藤の森会館の位置は地図の読み違いでした(文字の位置で表示していると思ったら 横に小さな点がありました。)早速訂正させていただきます。 関連HPのご紹介ありがとうございます。 > ・川西池田に関するホームページ > http://kyo1.site.ne.jp/fukuchi/770402/770402.html > 4枚の写真で構成されてます。うちDD54の写真は掲載者の間違いのようです。 こちらは開設当初より相互リンクさせてもらっております。 おっしゃる通り、左に高い樹木があること、ホームが直線過ぎること、 2本の線路の間隔などから川西池田ではないようですね。(ただ、それ以外は 非常に似ていますね。どこの駅か気になるところです。) > ・時刻表を見ていると福知山線の列車番号が700番台(区間列車を除く)になっ > てますがいつ頃から定着したのでしょうか。 この規則性もよく分からないのですが、S.22.6ではほとんど400番台ですが、それ以前に 700番台が付けられていた時期もあります。S.25.10のものではほとんどの長距離列車が 700番台になっています。正確に言うならもう少し多くの時刻表を集めて列車ごとの 遷移を見ていく必要がありそうです。 たいへん貴重なご指摘ありがとうございました。また思い出されたことなどありましたら お知らせください。引き続きよろしくお願い申し上げます。 |