■ 日本通運川西池田営業所と川西池田貨物ヤード     [目次ウィンドウ]  [目次]

国道176号線、能勢口〜国鉄前の線路、阪急の線路、および川に挟まれた広大な敷地に、日通の営業所(伊丹支店配下の営業所?)があった。現在は市営住宅・道路および川西阪急の一部になっている場所である。当時どのような貨物輸送が行なわれていたか、また国道を挟んで向かいにあった国鉄の貨物ヤードと連携していたはずだが、詳細は不明である。フォークリフトはよく見掛けたが、日通の中で働いていたのか、国道を渡ってヤードでも使用されていたのか、記憶が定かではない。日通色の営業所・倉庫の北側には大きな農協の倉庫と阪急所有の運動場があった。これらの地区は、あまり立ち入ることのできる雰囲気ではなかったが、昭和50年代、夏の盆踊り大会がここで行われた折りに倉庫のあたりには一度入った記憶がある。

現在は栄南団地となっているこの地に、いつから日通の事務所と倉庫ができたか不明であるが、[92](昭和37年)には伊丹支店川西池田営業所として記載されている。また、[96],[95]によると、昭和9年頃、池田駅の通運業者(川西町内)は4店が存在し、その中の「池田合同運送」という会社は丸通マークを商標に使用していて駅構内にあったことも示されているので、昭和初頭の運送合同によりできた合同運送株式会社(この後複雑な合併を繰り返し日本通運に統合)と関係があるように思われるが、復刻版の商工地図[99]によるとこの合同運送の場所は、どうも国道の南側であったようである。なお、[96]でこれ以外に記載されている運送業者は、「共同組運送店」、「三坂運送店」、「合資会社上津運送店」の3つである。三坂運送店は川西池田駅前にあった「みさか」商店の前身である。そもそも通運統合により日本通運株式会社が発足したのは昭和12年であるが、戦時体制下のいわゆる第2次統合により昭和17年に日通伊丹支店ができていることから、これら川西の運送業者もこの時に日通伊丹支店に統合された可能性が高いと考えられる。

日通総合研究所の所蔵文書[93][94][97][98]を拝見したところ、上で昭和37年の記録まで見出していた「池田営業所」の記録は、さらに昭和24年まで遡れることがわかった。また、戦前の昭和9年に記録されている「池田合同運送」は昭和15年時点でも記載されている。これらのことから日本通運池田営業所の開業時期は、昭和15〜昭和24年の間にまで特定される。

国道を横切り両者を結ぶようにしてほとんど埋まったようなレールが残っていたのを記憶しているが、能勢電の引込線の名残のようである。([46]のp.75に、おそらく末期のこの線を利用した、能勢電車両の搬入風景写真が掲載されている。)

この残されたレールに関する議論が、@nifty「鉄道フォーラム専門館(FTRAINE)」[118]のMES9#9898に始まる発言ツリーで展開されている。筆者も一部参加したのだが、この議論がなければ上の記述は「日通の引込線」となっていたであろう。最初この項を書いた頃は、能勢電のレールだとは全く思っていなかったのである。
その後刊行された資料「専用線一覧表 昭和39年」(トワイライトゾ〜ンマニュアル9」所収)[67] によると、ダイハツの専用線0.2kmが川西池田の側線としてこの時期に限って存在していたようである。使用者は日通で、国鉄機または手押しにて使用されていたとある。ダイハツの自動車輸送が行われ始めた頃と一致している。但し位置までは、この資料からは分からない。なお、鉄道公報(No.4243)を確認したところ、専用線一覧表が改正されてこのダイハツの専用線が加えられたのは、昭和38年11月5日(私有貨車シム2000が私有貨車取扱手続に含められた翌週)である。

日通付近見取図

1980年頃の日通付近見取図
日通付近の空中撮影写真
(1):日通1号倉庫(切妻平屋根の倉庫)
(2):日通2号倉庫(丸屋根の体育館のような倉庫)
(3)・(4)・(5):切妻平屋根、板張+上部漆喰外壁の伝統的な倉庫。この区画は農協倉庫と日通倉庫が混在している。

2010.05.16加筆:さらにその後寄せられた情報により、昭和35年頃におけるこれら建物の素性が明らかとなった。ちょうど日通の倉庫が最終的な形まで増築された頃であり、上の見取り図にある建物はすべて含まれているため、上記の説明にもこれを反映した。

日通付近見取図

1955年頃の日通付近建物配置図

能勢電の方の引込線については、文献[10]の記事によると国鉄との連絡箇所に三線レール部分があったとされている。三線レールとは、国鉄の線路幅(1067mm)と能勢電・阪急の線路幅(1435mm)とが違っていたため、三本のレールを敷いてその箇所だけはどちらの幅の車輌でも進入できるようにしたものである。

...又阪急の新造車が,川崎車輌の兵庫工場から,国鉄貨物列車に索かれて,福知山線の池田駅(現川西池田駅)迄,回送され,能勢電と国鉄線の三線レールの箇所で,回送用狭軌台車を取り外し,能勢口まで,阪急の台車を取り付け,赤鰯の様な細いレールの上を,ソロソロ能勢口まで,そして此の渡り線(引用者注:能勢口の阪急連絡線)を通って,池田車庫に搬入し総仕上げをされた.私も500型の搬入時に,屡々,福知山線の池田駅構内で,台車取替え作業を見物したものである.[10]

時期は書かれていないが、阪急が新製500型を搬入する時に池田駅構内で台車履替えを行っているわけであるから、少なくともその時期には三線レールが存在したと思われる。この川崎車輌製阪急500型の竣工・入線は、昭和13〜17年のことである。このような阪急の新車搬入が能勢電の連絡線経由で行われたことを記す文献は、他にも例えば[60][32][91]などがあるが、三線レールという記述は今のところこの記事に見出せるのみである。なお三線レールが撤去された時期は前述の写真で明らかな昭和40年以前としか判明しておらず、謎である。
国鉄構内の接続位置に貨物ホームが末期に至るまで存在していたが、能勢電との貨物積み替えに利用されていた可能性も高い。

この栄町南地域の変遷について前節の図面などを参考にもう一度整理してみたい。

日通付近の変遷(1)

日通付近の変遷(1):能勢電開業前(明治時代末期)

明治42年測量の官製地形図[7]による、能勢電開業直前の姿である。官線の方は国有化された直後で、まだ「阪鶴線」と記入されている。既に街道北側の地域は、まとまって周りの田畑から切り離されている。建物の素性はわからない。

日通付近の変遷(2)

日通付近の変遷(2):能勢電延長線新設の頃(大正時代初期)

能勢電の路線平面図によると、鉄道院線が帝国鉱泉倉庫の側まで引き込まれている。この線は、数年後の平面図には記載されていないが、いつなくなったかは不明である。

日通付近の変遷(3)

日通付近の変遷(3):大正末期〜昭和初期

能勢電の省線ヤードへの延長が行われた。まだ日通は存在しない。国道南側の官鉄ヤード側に「合同運送」があった(昭和9年頃)らしいので、官鉄の貨物扱いは主としてそちら側で行われていた可能性がある。
この後第二次大戦までの20年ほどの間の一時期に3線レールが存在したことは前述の通りだが、この図では能勢電レールに終端記号が描かれているので、まだその形態になっていなかったことがわかる。

日通付近の変遷(4)

日通付近の変遷(4):昭和23年(参考:米軍撮影空中写真M34-3:31,32)

能勢電の国鉄への引き込み線と国鉄の日通への引込線の両方が存在した時期である。日通の北側は豆陽工業の工場で、敷地内には廃飛行機がたくさん転がっていたといわれている。南北にひときわ大きな建物は鋸目屋根の典型的な工場の姿をしている。また、機関区の方には転車台が残っている。
なおヤード内の配線については、下敷とした写真が一部不鮮明のため、誤りが含まれているかも知れないのでご了承願いたい。能勢電と国鉄の接続部分もはっきりとは判別できないので色を変えて表示してある。(以下同様)

日通付近の変遷(5)

日通付近の変遷(5):昭和36年(参考:国土地理院撮影空中写真KK-61-2:C5-104,105)

国鉄機関区では転車台が消え、配線が少し変わった。機関庫の建物は建て替えられたのか長さが半分程度に縮まっているがまだ健在である。能勢電の真中の支線が消えている。能勢電の引込線は、この頃既に貨物が廃止され、車両搬入にしか使用されていなかったはずである。国鉄との連絡部分については、やはり判別不能である。
国道を挟んで北側では日通の倉庫が増築されたようである。工場の建物のうち、北の方は一部取り壊しが始まっている。

日通付近の変遷(6)

日通付近の変遷(6):昭和39年(参考:国土地理院撮影空中写真KK-64-3X:C1-9・川西市作成住居表示地図)

前図からわずか3年であるが、また少し配線が変わっている。国鉄の日通への引込線はなくなっている。北側の豆陽工業の工場も全て撤去されて更地にされている。日通の倉庫はさらに増築されたようである。

日通付近の変遷(7)

日通付近の変遷(7):昭和42年(参考:国土地理院撮影空中写真KK-67AX:C4-11,12・川西市再開発事業誌[5]

能勢電の引込線も撤去され、国道上のレールの残骸のみが周りの石畳と共に残った。その北側は砂利置き場になって埋もれ、南のヤード側は舗装されていた。国鉄ヤードにはク5000型が目立つようになり、自動車輸送の体制が整った頃である。そのためか留置線の有効長を長く取るような配置に変わっているように伺われる(推測だが)。
この頃住居表示が実施され、町名も栄町となった。昭和40年代は、長らく貨物輸送機能を持っていたこの地帯の、ひとつの最終形態であった。この後再開発の第一弾として倉庫群が一掃され、その跡地に栄南団地が建ち並び、ヤードの位置に駅が移転して現在に至っている。

一方、国鉄の貨物ヤードは7線程の小規模のもので、貨物の入替・積み下ろしを行なっていた。現在のJR川西池田駅および駅前広場の位置に当たる。古い地図上には、積み下ろし作業場や詰所らしき建物も描かれている。小学生の頃、中に入って線路と国道の間の空き地で自転車の練習をしていたことがあったが、その辺りは舗装されていた。

ヤードの東隣には数軒の商店と製材所があり、すぐに今辻の交差点(小花)に出る。左に曲がれば川西能勢口駅である。かつてこの交差点に川西郵便局があり、その跡に住友銀行が出店、現在に至っているとされている。この住友銀行の角から駅までの短い区間は、現在は渋滞緩和のため西側へ拡幅されたが、再開発前は雑多な商店が並んでいて典型的な街道沿いの風景が見られた。

日通の東端とヤードの東端を結ぶ位置に、国道を跨ぐ簡単な歩道橋が設置されていた。日通の横がどぶ川(加茂井溝)であったが、歩道橋の上り口は川に張り出すように置かれていたと記憶している。再開発と共に消え、現在はここにJRとアステを結ぶ遊歩道があるのだが、当然のことながら利用率はとても比較できるものではない。

同種類の歩道橋

歩道橋の写真はないが、同種のもの(オレンジの目隠し板などが似ている)を最近伊丹市内で見かけたので参考に掲げる (伊丹市西台1 2000.6.12)

この貨物ヤードが廃止された正確な時期はわからないが、昭和54年7月に北伊丹に大規模な貨物ヤードが完成して機能が移転したわけであるから[101]、少なくとも駅移転の約2年前には廃止されていたと考えられる。

阪鶴鉄道時代、このヤードの場所には機関庫が存在していた。「池田機関庫」という名称が与えられており、3線の庫・補給設備・小さめの転車台を備えた形態で運用されていた。大正初期〜昭和初期の複数の写真を比較してみると、この設備はそのまま鉄道省にも引き継がれて使用されていたようである。また、遅くとも昭和3年までには吹田機関庫の分庫という位置づけに落ち着いたこともわかっている[54]。その後昭和40年頃までの間に、徐々に機関庫としての役割を失うと共に諸設備も撤去され、貨物操車場に姿を変えていったわけであるが、その間の詳しい経緯を述べた資料は未だ見出せていない。昭和34年6月1日付の国鉄機関区一覧には、まだ吹田第一機関区所属池田支区として残っているものの機関車の配置はない[50]
[9]の収録記事「思い出の川西池田」(かわずプロ)中に、この川西池田支区の写真が掲載されている。ちょうど庫のすぐ北側が柵で区切られ、「大阪鉄道管理局吹田第一機関区川西池田支区」と書かれた木札の掲示された簡単な木製のゲートが認められる。庫の中ではキハ58形が休んでいる所である。

阪鶴鉄道の機関車検修工場は、鉄道院が引き継いだものの(「池田工場」)大正4年には廃止された。その後は工場業務を行わない「機関庫」として散発的に記録に現れるようになる(上述のように昭和3年には吹田機関庫池田分庫としての存在が確認できる)のであるが、記録に現れない期間も池田機関庫が継続して機能していたか、またそもそも「池田工場」がこのヤードの位置にあった機関庫の前身であるのか、別の設備であったのかは謎である。確かなのは、阪鶴鉄道時代から少なくとも昭和23年まで、同一の機関庫建物・付帯設備(給水塔など)が存在し続けていたことである。

池田工場・池田機関庫関係年表[82]
M.42.11.10  鉄道院池田工場の機関車検修業務を神戸工場に移管
T. 4. 4. 1  神戸・池田両工場を鷹取工場の支工場とする
T. 4. 6.11  鷹取工場の池田支工場を廃止
T.14. 8.10  吹田機関庫を開設(後の吹田第一機関区)
S. 3.       この時点で吹田機関庫池田分庫の存在が確認できる
S.11. 9. 1  機関庫を区に、分庫分区を支区に改正
S.23.       機関庫(旧)の建物が空中写真に確認できる
S.32. 4.10  吹田第一機関区川西池田支区を開設
S.36.       機関庫(新)の建物が空中写真に確認できる
S.39.       同上
S.39. 2.20  吹田第一機関区川西池田支区を廃止
(以上、2002.1.8追記、調査継続中)

池田機関庫

鉄道省池田機関庫(分庫) 国道寄りの部分 池田五月山を北東方向に望む
「御大礼記念写真帖 吹田機関庫」昭和3年(筆者所蔵)[54]より

池田機関庫 給水塔

池田機関庫 給水・給炭設備部分 (同上)
上と連続で1枚の写真の右半分である。
地下水を井戸で汲み上げていたか、またはこの下あたりを通っていた小戸井という用水を利用していたかであろうが、機関車用の給水にはかなりきれいな水が要求されるので、前者の方が可能性が高い。
小戸井は猪名川に発する農業用水であり、能勢電の池田駅前までの区間では線路沿いに流れていたものである。
なお、庫との間には小さ目の転車台があった。古典テンダ機がやっと載る位の直径で、人力で転回させていたものである。
また、ずっと手前、駅ホームの方には本線上の機関車に給水する小さな給水スポートも存在していた。

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