■ 川西鉄道小史 注釈:第1章「川西池田」

p.14 摂津鉄道 摂津鉄道も阪鶴鉄道以上に実態の掴みがたい鉄道会社であるが、ひとつ面白い記録が残っている。池田市の『市史編纂だよりNo.30』(池田市のHPより閲覧可能)に出て来る話で、政治家の板垣退助が全国を回る自由民権運動の遊説活動の一環で池田町を訪れた際、池田駅から摂津鉄道に乗車、神戸へと向かったというのである。これは明治27年2月9日のこととされている。調べてみると、このときの遊説旅行は、東京から後の東海道本線(全線開通済み)沿いに神戸に向かい、その後関西鉄道を使って三重まで東に戻るという当時の長距離鉄道をフル活用したものであった。

p.16 池田仮駅が火災で焼失 これは最初『川西市史』で読んだ話であるが、出典が何であるかがわからずずっと気になっていた。その後『川西史話』p.241に、「このことは桜井昭男氏所蔵の村方日誌の中にかろうじて見出すことができました」とあり疑問が氷解した。『広報かわにし』の同タイトルのオリジナル記事の方にはこの部分がなかったため気付けなかったのである。

p.21 岩崎・渡辺コレクション 鉄道博物館所蔵のこのガラス乾板写真の膨大なコレクションには駅舎などの写真も含まれていそうだが、それにたどり着くことは部外者には難しい状況である。また、機関車の写真はコントラストの加減で背景が白く飛びがちとなるので、場所の同定も困難である。この2枚(他にもある)が池田駅付近で撮影されたということが記録されているわけではない。

p.23 池田駅前郵便局 記録には川西村までしか書かれておらず、それ以上の場所の特定ができない。駅に併設されていた可能性もある。

[Q1-1] 明治42年に開設され、現在の川西郵便局のルーツとも言える「池田駅前郵便局」はどこにあったのか。

p.26 池田駅の駅舎について ここまで数ページは次の大きな疑問の提示と分析である。

[Q1-2] 池田駅(後の川西池田駅)の木造駅舎はどの時代のものなのか。阪鶴鉄道までさかのぼれるものなのかどうか。

p.32 深夜バス(阪北線) この路線は、阪急が宝塚線電車と競合するバス路線ができないようにするために保有・運行していたという話もある(池田市『市史編纂だよりNo.37』)。昭和51年までとかなり近年まで運行されていたようなので、利用経験のある人がおられるかもしれない。

p.33 連査閉塞への切り替え; p.42 転轍器について 旧川西池田駅の信号・保安設備について、いくつか不明な点を指摘した。転轍機について、昭和40年近くまでは転轍手小屋が使われていたようにも思われるものの、ちょうどその頃から優等列車が大幅に増えており、その後も手動であったとは考えにくい。

[Q1-3] 川西池田が連査閉塞へ切り替えらえたのはいつなのか(三田以北と同じ昭和38年か)。

[Q1-4] 川西池田駅の転轍器は、本線のものについては機械化されていたと考えてよいのか。

[Q1-5] 川西池田駅での駅務について、客車列車関係が大体想像可能であるのに対し、貨物については(惣川の工臨を除いて)ほとんど謎である。尼崎港線列車も混合列車であったからヤードの入換えとも絡んでいたはずであるが、その全貌は明らかというには程遠い。

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