大正11年、最初の申請時に添付された「伊丹延長線予測平面図」(明治42 年版地形図に計画線を書き込んだ大ざっぱなもの)を見ると、能勢口を出て国鉄前へ至る 途中、阪急の下をくぐる地点で既設線から分岐し、今辻交差点の西、県道(現在の国道 176号線)の北側に「川西停留所」を設ける予定であった(同地形図ではその辺りは田に なっている)。そこからまっすぐ南に向かい、栄根、加茂、久代、鋳物師(いもじ)、金 岡と停留所を設け、終点伊丹が既存の阪急伊丹駅と重なっていた。
一方、大正13年再申請時の計画線図(下)を見ると、省線との連絡を重視 したのか、分岐点は同じであるが川西停留所はなくなり、代わりにずっと西まで国道の北 側を通り省線池田駅の北向かいに池田停留所を設ける路線に変わっている。寺畑の丘に沿 って古くからある屋敷群の間を突っ切る形であり、かなり無理に引っ張った印象を受ける。 計画線は池田駅西方でぐっと南に向きを変え、「巡礼橋梁」で巡礼街道(176号線)を、 「高見橋梁」で福知山線を跨ぎつつ、加茂へと向かっている。この地図は、池田駅前停留 所もそうであるが、官線池田駅との融合が古くから様々な方向で模索されていたことを物 語っているのかも知れない。少なくともこの計画線の通りに延長線が実現していたならば、 寺畑1丁目付近は想像もできないくらい異なったものとなっていたことであろう。なお、 既設の池田駅前線との交差部分は橋梁等の設計指示が書かれておらず、既設線をどうする つもりだったのかは不明である。余談であるが、この起点となっている阪急高架下の場所 は現在は栄町と呼ばれているが、地図上では「字栄根九文田35番地」と書き込まれている。 明治以前からこの辺りは周辺の村の入組地になっていたそうであるが、その名残であろう か。
伊丹延長線軌道工事施工認可申請書 付図 能勢電伊丹延長線路実測
平面図(鉄道院線池田駅交差部分)
大正13年4月26日申請提出 (国立公文書館所蔵:原図)に基づき作成。
なお、申請時点で阪鶴線は国有化されているが、原図には「阪鶴線」と記してある。
(2013.9 注) 国有化後も線名としてはしばらく「阪鶴線」が用いられていた。
ところがこの計画線は期限内に施行されることなく、10年以上経った昭和 11年、「川西・伊丹間起業目論見変更却下」・「川西・伊丹間工事施工願却下」の両文書 により消滅してしまった。(川西市史[4]pp.291-292その他によると、兵庫県が能勢 電の工事認可申請書を死蔵させたためとされているが、出典は何であろうか。)
また、市史には戦後、地域で起こった陳情活動についても記述されている。
戦後の昭和36年3月にも、尼崎・伊丹・川西・猪名川で構成する三市一町連 絡協議会が、川西・伊丹線の実現を要望したが、いまだにその見通しはない。 [4]p.292
現在ではJRの利便性が大きく改善されたため、必要性はかなり少なくなっ たのではないだろうか。しかしながら阪急伊丹駅は、支線の終端でしかなくJR伊丹からも 相当離れているのは相変わらずである。実際のところこれがどの程度不便なのか、住んだ ことがないので残念ながらわからない。
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