タイトル | : 寺畑住民でした |
記事No | : 30 |
投稿日 | : 2003/10/25(Sat) 23:36 |
投稿者 | : 船木 |
はじめまして。「寺畑」で検索していくうちに見つけました。 1969年加茂小学校入学、75年川西中学入学という年代ですので、同年代に近いのではないでしょうか。 毎朝加茂小へ行く時の踏切が釜割谷踏切という名であったこと初めて知りました。駅前の風景が30年近く思い起こしたこともなかったのに、森田さんたちの写真を見るときちんと思い出せること、例えば木の支えになっていた金属パイプを覚えていることが、自分でも不思議でした。20年以上前に大阪に引っ越し、以来2年前まで寺畑には近寄ったこともなかったのですが、出張で近所によることがあり、あまりの変貌ぶりにショックを受けました。しかし、駅の北側、我が寺畑1丁目14番地付近は、小川こそ暗渠化されたものの、まだ見分けが付く状態でした。 私が物心付いた時には、すでに蒸機は珍しく、家から煙が見えるとわざわざ見に行った覚えがあります。雲雀丘学園に蒸機が搬入された時のことを覚えています。駅から大型トレーラーで学園まで運び入れられたはずです。 あと、72年でしたか、ゼネストで3日ほど学校も国鉄も止まり、やることのない小学生3人組で、線路を辿って、宝塚近くまでひたすら歩いたことがあります。ゼネストはありがたいものだと思ったものです。 夕方、駅で降り立った相当多くの大人たちは、プラットフォームに下りるとそのまま釜割谷の踏切の横合いに出て家路についていました。子供心に「ずるいな〜」と思っていましたが、定期のサラリーマンだったのでしょうね。
能勢電の川西池田・能勢口間の「ボロ電」に自転車で「勝負」して勝った(と言っても、ほんの少しの距離でしょうが)ってなこともありました。
様々なことを思い出しながらこのHPを読ませていただきました。 ありがとうございます。
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